第三章 前の住人
管理人の老人は、渋々ながら前の住人の話をしてくれた。
前の住人は二十代の女性で、森田という名前だった。一年半ほど住んでいた。おとなしくて、挨拶はするが特に交流はなかった。しかしある時期から様子が変わった。
夜中に、203号室から音がするようになった。しかし管理人が確認すると、音を立てているのは202号室の森田の方だった。深夜に壁に向かって何かを言い続けていた。内容は聞き取れなかったが、壁に何かを語りかけているようだった。
一か月ほどそれが続いた後、森田は突然引っ越した。挨拶もなく、夜中に荷物を持って出て行った。
「その後、203号室から音がするようになった」と老人は言った。「森田さんがいた頃は、203号室は別の方が住んでいた。その方が引っ越した後、空室になった。しかしそれと同時に、音がするようになった」
「203号室に住んでいた方は、なぜ引っ越したんですか」
老人は少し目を細めた。「それは聞かなかった。しかし出て行く前に、私に言っていった。壁の向こうにいるものに話しかけてはいけない、と」
彩は背筋が寒くなった。
「壁の向こうにいるもの、というのは」
「わからない。あの部屋に、何かがいるのだと思う。長い間、あそこにいる。私がこのアパートの管理を引き継いだときから、もう十五年になるが、その前から音がしていたと聞いている」
「なぜそれを、入居するときに言わなかったんですか」
「言えば誰も入らない。あなたも、すぐに引っ越してください。しかし急いで引っ越せないなら、一つだけ守ってほしいことがある。203号室の壁に、近づかないこと。特に深夜に音がしているとき、絶対に壁に触れないこと。触れると、引き寄せられる」
「引き寄せられる、とはどういう意味ですか」
「前の住人の森田さんは、最初の頃は壁の音を怖がっていた。しかしある夜、壁に耳を当てた。そして次の日から、壁に話しかけるようになった。最終的には、壁を叩くようになった。来い、と言いながら壁を叩いていた。私はその声を聞いた」
彩は管理人の老人の顔を見た。老人は怖がっていた。長年そこにいて、それでも怖がっていた。
その夜から、彩は203号室の壁に近づかなかった。
しかし音は続いた。
ある夜、音の中に、言葉が混じった。
はっきりとした日本語ではない。しかし言葉の形を持った何かが、壁越しに聞こえてきた。彩はベッドの上で布団を被り、耳を塞いだ。しかし言葉は聞こえてきた。
「いるか」という音だった。
疑問形の、静かな問いかけだった。怒っているわけでも、怖い声でもない。ただ、誰かがいるかどうかを確かめるような、静かな問いかけ。
彩は答えなかった。
「いるか」という音が、三回繰り返されて、止んだ。

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