第五章 壁の中
彩はその夜、眠れなかった。
壁の向こうの声は、名前を聞いてもすぐには答えなかった。長い沈黙の後、「浜田」と言った。浜田という苗字だけ。年齢は言わなかった。
「いつからそこにいるんですか」と彩は聞いた。
「わからない。長い。とても長い」
「どうやってそこに入ったんですか」
「引っ越してきた。あの部屋に。普通に引っ越してきた。最初は何もなかった。でも夜に音がして、壁に近づいて、触れた。それからここにいる」
彩は全身が冷えていくのを感じた。
「壁に触れたら、その場所に入ったということですか」
「わからない。気づいたらここにいた。部屋にいるはずなのに、部屋が見えない。壁しかない。真っ暗で、冷たくて、音だけがある。あなたの声が聞こえるのは、今夜初めてだ」
「他にも、そこに人がいますか」
間があった。「いる。いる気がする。でも声は聞こえない。気配だけがある。たくさんの気配がある」
田中が「前の住人が壁を叩きながら来い来いと言っていた」と言った言葉を、彩は思い出した。森田という住人は、引き寄せようとしていたのではなく、閉じ込められていた誰かを出そうとしていたのかもしれない。
それが管理人の老人には「引き寄せられた」ように見えたのかもしれない。
「出してほしい。どうすれば出られる」と壁の向こうの声は言った。
彩はどうすればいいかわからなかった。しかし一人では何もできない。
翌朝、彩は田中に全てを話した。
「物理的に壁を壊すしかないかもしれない」と田中は言った。半分冗談のような口調だったが、半分は本気に聞こえた。
「本気で言ってる?」
「壁の中に人がいるなら、壁を壊せばいい。でも問題は、壁の向こうに本当に空間があるかどうかだ。あるなら、そこに誰かがいる可能性がある。建設的に考えよう。まず管理人に話す」
管理人の老人に、壁の中の声のことを話した。老人は今度は驚いた顔をした。驚いた、ということは知らなかったのだ、と彩は理解した。
「壁に触れてはいけないと言ったのは、引き込まれるからだと思っていた。でも声が聞こえたのは、あなたが初めてです」
「なぜ私だけ」
「わからない。でも、やることは一つです」
老人は工務店に連絡した。翌日、業者が来た。203号室の壁を調べた。
壁の中に、空洞があった。
もともとの建物の設計にはない、意図的に作られたような空洞が、202号室との間の壁の内側にあった。幅一メートル、高さ二メートルほどの空間が、壁の内側に存在していた。
業者が壁を開けた。
中には誰もいなかった。
しかしその瞬間、彩の部屋の空気が変わった。重さのようなものが、すっと抜けた。管理人の老人が「音がしなくなった気がする」と言った。
その夜、203号室の壁からは、何の音もしなかった。
彩は壁の前に立ち、「出られましたか」と問いかけた。
返事はなかった。
しかし、温かかった。壁が、昨日まで感じていた重さとは違う、穏やかな温もりを持っていた。
彩はそれを、返事だと思うことにした。
その後も、音は一度も聞こえなかった。
半年後、彩は別の場所に引っ越した。引っ越す理由は、音ではなく、会社の近くに部屋が見つかったからだった。引っ越す日の朝、彩はもう一度だけ壁の前に立った。
「さようなら」と言った。
壁は静かだった。
静けさの中に、何かが満ちているような気がした。

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