第四章 声の正体
五月になった。
彩は引っ越すことを決めていたが、なかなか動けなかった。物件を探す時間がない。お金が不足している。そういう現実的な理由もあったが、それ以上に、何かを放置して逃げるような後ろめたさがあった。
田中に改めて相談した。「本当に何かいると思う」
田中は今度は冗談めかさずに聞いた。「何が見えた。何が聞こえた」と整理するように質問してきた。彩は全部話した。窓から見えた靄のような形。壁の温もり。低い音楽のような音。「いるか」という問いかけ。
「その問いかけ、怖かったか」と田中は聞いた。
「怖かったけど……怒っている感じじゃなかった。ただ確かめているような感じだった」
「それが気になる」と田中は言った。「攻撃的な霊なら、もう何か起きていてもいい。でも聞こえてくるのは問いかけだけ。前の住人が壁を叩いて来い来いと言ったのも、引き寄せられたというより、自分から引き寄せようとしていた感じじゃないか」
「どういうこと?」
「もしかしたら、あちら側から来たいわけじゃない。こちら側から来てほしいと思っている。あの部屋にあるものが、誰かを呼んでいるんじゃなくて、誰かに呼びかけられるのを待っているのかもしれない」
それは奇妙な発想だった。しかし彩には、何かが腑に落ちた。
「応答した人間が、引き寄せられた」
「そう。応答しない人間には何もしない。だから管理人のじいさんは十五年以上そこにいられる。あなたも壁に触れなければ、おそらく何もない」
「でも前の住人の森田さんは、触れてしまった」
「壁に触れて、応答してしまった。そしてその後、壁に話しかけるようになった。お互いが会話を始めた」
「会話」と彩は繰り返した。
「会話が始まると、関係が深まる。あちら側がどういうものか知らないが、会話ができるということは、言葉があるということだ。言葉があるなら、理解できる可能性がある」
彩はその日の夜、部屋に戻ってから、しばらく壁を見た。
壁は普通の壁だった。白くて、少し古くて、日中は何の変哲もない壁だ。
しかし夜になると、壁の向こうに気配がある。その気配は、今まで感じたものの中で、彩を傷つけようとしたことは一度もなかった。ただ問いかけてきた。いるか、と。
彩は立ち上がり、壁の前に立った。
触れなかった。ただ、前に立って、言った。
「います」
壁が、温かくなった。
音が鳴り始めた。低い音楽のような音が。しかし今夜は違った。音が、言葉になった。
女の声だった。
「やっと」という声だった。かすれた、しかし確かに人間の声だった。「やっと、聞こえた」
「誰ですか」と彩は聞いた。壁に向かって、声に出して。
「ここに、ずっとここにいる」
「ここ、というのは203号室ですか」
「ここに閉じ込められている。出られない。助けてほしい」

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