隣の部屋の音
第一章 引っ越し
松本彩は二十四歳の春、東京の端にある古いアパートに引っ越した。
間取りは1K、六畳、バストイレ別、家賃は五万二千円。渋谷の会社まで電車で四十分かかるが、この家賃は彩にとって精一杯だった。大学を出て二年目、広告代理店の制作部に勤めていた彩の手取りは二十一万円で、そこから奨学金の返済と保険と食費を引けば、貯金などほとんどできなかった。安い部屋で構わなかった。眠れればいい。荷物が置ければいい。そういう気持ちで探した部屋だった。
アパートの名前は「ハイツ桜川」という。築三十八年の二階建てで、部屋数は全部で八室。内覧に来たとき、不動産屋の担当者が「少し古いですが、リフォームしてありますから」と言った。確かにキッチンと風呂は新しくなっていたが、廊下の床板は踏むたびに音がしたし、壁は薄かった。
薄いことは最初からわかっていた。
内覧のとき、隣の部屋から音が聞こえていた。テレビの音か、ラジオの音か、よく聞こえなかったが、壁越しに人の気配がした。それほど気にならなかった。東京に住んでいれば、隣の音などどこにでもある。
引っ越しは三月の初めの土曜日だった。
業者に頼む余裕はなく、友人二人に手伝ってもらって、軽トラを一台借りた。荷物の少ない彩の引っ越しは午後には終わった。友人たちが帰ったあと、彩は一人で部屋に座り、段ボールに囲まれながらコンビニのパスタを食べた。新しい部屋の静けさが、少し寂しかった。
その夜、初めて気づいた。
隣の部屋から、音がしていた。
壁越しに聞こえる音は、最初はテレビだと思った。人の声が聞こえていたからだ。しかしよく聞くと、声が一方向にしか聞こえない。テレビなら会話があるはずだが、同じ声が、同じトーンで、延々と続いている。
何かを読んでいるのだろうか、と彩は思った。本か何かを、声に出して読んでいる。そう考えると納得がいった。
彩は布団を敷いて、眠った。
翌朝目が覚めると、隣から音はしていなかった。
しかし三日目の夜、また音がした。
今度は、声ではなかった。
音楽のような、音楽ではないような、低い音だった。唸るような、かすかに震えるような音。壁を通じて、体の奥に染み込んでくるような感覚がある音だった。彩は最初、エアコンの室外機の音かと思ったが、エアコンを切っても音は続いた。外の音でもなかった。確かに壁の向こうから聞こえてくる。
彩は壁に耳を当てた。
音が、大きくなった。
同時に、壁が、微かに温かいことに気づいた。三月の夜の冷えた部屋の中で、隣との壁だけが、手のひらに温もりを伝えてきた。
彩は壁から手を離した。
それ以上調べる気になれなかった。
翌朝、アパートの管理人に隣の住人について聞いた。管理人は七十代の老人で、一階の一番端の部屋に住んでいた。
「203号室の方ですか」と管理人は言った。「あそこは今、空室ですよ」
「空室?」と彩は言った。
「半年ほど前から空いています。前の住人が急に出て行って、以来ずっと空室です」
「でも夜に音がしているんですが」
管理人は少し間を置いた。「気のせいじゃないですか。古いアパートですから、壁や床が夜に音を立てることはありますよ。建材が温度差で伸び縮みする音です」
彩は管理人の顔を見た。老人の目が、一瞬だけ何かを考えているように見えた。しかしすぐに、穏やかな表情に戻った。
「気になるようでしたら、耳栓でもして寝てみてください」と老人は言った。

コメント