第二章 203号室
空室であることを確認したことで、彩の不安は増した。
人がいないはずの部屋から音がしている。それは単純に不気味だった。しかし引っ越したばかりで、また引っ越す余裕も気力もなかった。仕事は忙しく、深夜まで残業することも多い。疲れて帰ってきて、眠れればいい。そう自分に言い聞かせた。
しかし音は続いた。
毎晩ではない。二日おき、三日おきに、決まって夜の十一時から深夜一時の間に、音がした。低い唸り声のような音が続くこともあれば、かすかに人の声のようなものが聞こえることもあった。声は聞き取れないほど小さかったが、確かに声の抑揚があった。
彩は四月に、同僚の田中に相談した。田中は彩より三つ上で、オカルトが好きな、少し変わった性格の男だった。
「それ、絶対出るやつだよ」と田中は即答した。
「やめてよ」
「いや本当に。空室から音がするってのは、定番中の定番。しかも毎晩じゃなくて時々っていうのが、また怖い。規則性があるのが余計に怖い」
「何か調べる方法ある?」
「部屋の中を見ればいいじゃないか。不法侵入になるけど」
「なるよ」
「じゃあ、外から覗くだけ。窓から」
その週末、彩は外から203号室の窓を覗いた。日中、管理人がいない時間を見計らって、外の非常階段から覗いた。
カーテンが閉まっていた。外から中は見えなかった。
しかし窓の下の方、カーテンの端が少し開いている場所があった。彩はそこに顔を近づけた。
部屋の中は暗かった。
しかし暗い中で、一点だけ、何かが動いているのが見えた。
奥の壁の前に、何かがいた。
形は人間に似ていたが、人間ではないような気がした。体の輪郭がはっきりしない。靄のように揺れている。しかし確かに何かがそこにいて、壁に向かって何かをしていた。手を壁に当てているのか、頭を押しつけているのか、壁と接触しながら、ゆらゆらと揺れていた。
彩は非常階段から飛び降りるように下に降り、自分の部屋に戻った。
心臓が激しく鳴っていた。見た、という確信と、見間違えかもしれないという疑いが同時にあった。暗い部屋を外から覗いた。影が動いているように見えた。それだけかもしれない。
しかしその夜、彩は眠れなかった。
壁の向こうから、また音がした。低い唸り声が、一時間以上続いた。
彩は布団の中で体を丸め、耳を塞いだ。しかし音は、耳を塞いでも聞こえてくるような気がした。頭の中に直接響いてくるような、奇妙な感覚だった。
朝になると音は止んでいた。
彩はスマートフォンで「203号室」「ハイツ桜川」「事故物件」で検索した。何も出てこなかった。
次に、前の住人が「急に出て行った」という管理人の言葉を思い出し、前の住人について調べようとしたが、調べる方法がなかった。
彩はもう一度、管理人のところへ行った。
「203号室の前の住人について、教えてもらえますか」
管理人は今度は表情を変えなかった。しかし少しだけ間を置いてから言った。
「なぜそれを聞くんですか」
「音が続いているので。何か事情があるなら知りたい」
「あなた、あの壁に近づかない方がいい」と老人はゆっくりと言った。「隣の壁に、耳を当てたり、手を触れたりするのは、やめた方がいい」
「なぜですか」
「前の住人も、そうやって始まったから」

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